木村欣三郎物語 

はじめに

遠く離れた南米のブラジルで半生を過ごした男「木村欣三郎」の物語。

『プロローグ』
若くして、両親を亡くし、木村本家に育てられた『欣三郎』。彼の日本での生活についてはほとんど親戚に知らされていない。そして、彼は、1930年に兄『タカジロウ』の呼び寄せでブラジルに渡り、1986年に亡くなるまでごく平凡なブラジル移民の生活を送った。そのごく平凡なブラジル移民の生活を今回、描いてみた。彼は、わたしの妻の祖父であり、茨城県の水戸市の醤油会社を代々営んだ『木村家』の一人である。妻の記憶を頼りに可能な限り、史実に基づいた物語を書いてみることにする。
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千代子は、欣三郎の孫。そして、おしゃべりな小さな女の子だった。髪は短く、ストレート。ごく普通の女の子。ただ、ブラジルの奥地で育った。頭にあることは何でも口に出す。そして、おじいちゃんに、孫の千代子はいつも、頭に疑問があった。そして、こう質問するのである。

1929年、日本は昭和4年。この前年には第1回普通選挙が行われた。普通選挙といってもまだ、男性にしか選挙権が認められていなかった時代。当時、日本政府の見解は、女性にまで選挙権を与えると社会が変わり過ぎる、世論がまだ、未熟である、女性の政治能力は男性のそれに比べ、稚拙であるなどであった。

話は前後するが、1930年1月16日(木曜日)に横浜港を出港した。木村欣三郎と彼の夢を乗せたモンテビデオ丸は、3月3日(月曜日)にサントス港に着いた。日本では、ちょうど桃の節句。きっと、暑かったに違いない。桃の節句が暑い時期にあたるブラジル。違和感この上ないだろう。木村欣三郎は、暑さに閉口していたに違いない。木村欣三郎のブラジルに対する第一印象はどうだっただろうか。3月というのに、猛暑である。日本では春一番が吹くような寒い時期。サントス港に降り立った木村欣三郎は希望や夢を持っていたというより、この暑さに閉口していたにちがいない。寒かったところから、47日間をかけ、ゆっくりと時差ボケの影響もなく、ブラジルに到着している。生活リズムが変わって大変だというようなことは、昔はなかった。ただただ...

木村 欣三郎の生きた時代より、少しさかのぼって、日本人がしてきた教育について考えてみたいと思う。このことが、ブラジルに渡った日本人の日本語教育、現地教育に対する考え方、そして、日系ブラジル人の教育に関する考え方、そして、日系コローニアで行われてきた事が理解できるに違いないのである。たんに世界的に日本人は勤勉だ。だから、海を渡った日本人同士が集まって学校を建てて何とかしようって集まって考えて意見を出し合っただけと考えるのも一つであるが、もう少し、日本の教育の歴史を紐解いていくと、海を渡った日本人の行動が面白く解析できるに違いないのである。確かに、ブラジル各地に散らばった日本人がブラジルに根付くまでに、幾年の月日が必要だったかと問われれば、筆者の私自身、

日本からの移民がブラジルに渡り、直面したことのうちの一つ、「農業」について書こうと思う。筆者は、教育に携わっている。子どもたちに、土や植物と触れ合って欲しいという願いを込めて、年間を通じ、色んなものを教室の前の学級園に植えてきた。それは、人間にとって大切なことの一つ「生きる」ことを教えたかったからである。

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