木村欣三郎物語 第004話

2018年01月20日

『日本人の教育 いま』

 木村 欣三郎の生きた時代より、少しさかのぼって、日本人がしてきた教育について考えてみたいと思う。このことが、ブラジルに渡った日本人の日本語教育、現地教育に対する考え方、そして、日系ブラジル人の教育に関する考え方、そして、日系コローニアで行われてきた事が理解できるに違いないのである。たんに世界的に日本人は勤勉だ。だから、海を渡った日本人同士が集まって学校を建てて何とかしようって集まって考えて意見を出し合っただけと考えるのも一つであるが、もう少し、日本の教育の歴史を紐解いていくと、海を渡った日本人の行動が面白く解析できるに違いないのである。確かに、ブラジル各地に散らばった日本人がブラジルに根付くまでに、幾年の月日が必要だったかと問われれば、筆者の私自身、

『どうかなぁ』としか、答えることができない。それは、いつでも、どこでも、どんなときでも、日本の家族のことを考えているし、インターネットを利用して、筆者の弟や両親のことが手にとるようにわかるだけでなく、世界各国の情勢まで、逐次入手できるのである。そんな時代に生きている筆者も含めて、この南米のブラジルの大地に『根付く』という考え方が古くなってきているきがする。しかも、国際的に活躍をする人々を考えれば、こういった『根付く』という考え方よりも、『飛躍する』という考え方が現代にはあっているような気がする。現代は、『ゴルゴ13』のような無国籍の人が増えても不思議ではない世の中になってしまった。『教育』に対する考え方もかなり、変わってきているような気がする。小学校では、英語教育が取り入れられ、『国際理解』をするためにさまざまな努力がされている日本の教育が最近の教育である。『生きる力』『自主自立』した生き方を身につけさせたい、そんな教育理念をもとに勉強をしている昨今である。

『日本人の教育 歴史』

 日本で初めて教育に目覚め、制度が作られたのはなんと大宝律令のときまでさかのぼる。701年のことだ。貴族や武士を中心に勉強をする場がなんらかの形で存在した。今は2016年であるから、もう、1300年あまりも前のこと。江戸時代に入ると皆さんおなじみの『寺子屋』が登場する。そして、初等教育から高等教育までの近代的な学校制度が成立するのは、明治時代のことである。それからというもの、日本は戦争の時代に突入し、その間にブラジルへの移民も始まった。それが、1908年のこと。いまから約110年も前のことである。

 第ニ次世界大戦が終わってもう、70年余りが過ぎ去った。そして、この第二次世界大戦を機に日本の教育は大きく変わるのである。ブラジルでは、日本の敗戦を認めたくなかった人々が社会問題にもなるほどの色々な問題を起こした。いわゆる『勝ち組』と『負け組』である。ただ、日本においても、日本の『敗戦』を認めた人は少ないような気がする。その一つの証拠として、いまだに、8月15日を『終戦記念日』としている。決して『敗戦記念日』としていないのである。『戦争が終わった日』それこそが8月15日なのだ。 

 先日、2学期、学校が始まったのは、8月15日。

元気な顔を見せてくれたクラスの児童みんなに、

『今日は、何の日?』の質問をしてみた。誰一人として、『戦争が終わった日』と答えた児童は、一人もいなかった。日本の平和教育が浸透しているといってよいのか、悲劇は忘れるに限るのか、複雑な気持ちになったのは、つい先ごろのことだった。

 さて、そのいろいろなことが変わるきっかけともなったこの第二次世界大戦後の教育は、日本国憲法と教育基本法に基づいており、平和の理念を貫き通しているはずである。しかも、天皇は国民の象徴となった。みなさん、どうだろうか。最近のニュースでは、天皇自ら、ビデオレターを国民のみなさんに配信したばかりである。平たく言えば、『生前退位』をどうしよっかということであった。近代的になった宮内庁である。天皇ご自身がFacebookやTwitterでつぶやいたり、メッセージを国民に送る時代もそう遠くはないだろう。そのときは、ぜひ、フォローしてみたいものだ。ダイレクトメッセージでも送ったら、返信してくれるのだろうか。つい、また、話が脱線してしまった。

話を戻して、第二次世界大戦以前はといえば、大日本帝国憲法であり、天皇が中心に全てが動いていた。そして、『教育勅語』の内容が教育の全てであった。現在の日本の教育は昔のそれとは全く違う。これで、やっと、『木村 欣三郎』の生きた時代に近づいた。

『教育勅語(教育ニ関スル勅語)』

では、戦前の教育の根幹であった『教育勅語』(教育ニ関スル勅語)について書いてみたい。この『教育勅語』は、1890年10月30日に出された明治天皇の勅語である。その内容は、修身・道徳教育の根本規範である。この当時、日本国内では、紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(11月3日)および1月1日(元日、四方節)の祝祭日には、学校で儀式が行われていた。全校生徒に向けて校長が教育勅語を厳粛に読み上げ、その写しは御真影とともに奉安殿に納められていたのである。

ところで、筆者がブラジルに渡ったのが1992年。いまから24年前のこと。戦争が終わって、47年が経ったこの時代にも、御真影が飾られていた地方の日本語学校は少なくなかった。もちろん、先に述べたような儀式は行われていなかったが、その精神は日系ブラジル人に受け継がれていたような気がする。

『教育勅語(教育ニ関スル勅語) 十二の徳目』

教育勅語は、明治天皇が当時の首相(山縣有朋)と文部大臣(芳川顕正)にみずから与えた勅語である。そして、国民に語りかける形式をとる。つい先ごろ、天皇の『生前退位』の内容を含めたビデオレターが国民に放映されたのが記憶に新しいことであるが、時代の移り変わりを目の当たりにしている。

さて、教育勅語の内容であるが、皇室の祖先が、日本の国家と日本国民の道徳を確立し、忠孝な民が団結してその道徳を実行してきたことが教育の起源だという。そして、『十二の徳目』について言及している。では、その昔懐かしいかも知れない『十二の徳目』を紹介しよう。なぜなら、『木村 欣三郎』自身、こんな徳目を実践してきた一人だと思うからだ。ところで、私の職場である中学校の授業でも内容を紹介し、「昔の人は...」と説明している。生徒は興味深いというよりも、自分と関係があるのだろうかという態度で聞いているような気がする。史実を事実に基づいて授業という時間に紹介しているだけである。この『十二の徳目』を実践しなさいということではない。さて、それでは...

一、父母ニ孝ニ(親に孝養を尽くしましょう)

一、兄弟ニ友ニ(兄弟・姉妹は仲良くしましょう)

一、夫婦相和シ(夫婦は互いに分を守って、仲睦まじくしましょう)

一、朋友相信シ(友だちはお互いに信じ合いましょう)

一、恭儉己レヲ持シ(自分の言動を慎みましょう)

一、博愛衆ニ及ホシ(広く全ての人に慈愛の手を差し伸べましょう)

一、學ヲ修メ業ヲ習ヒ(勉学に励み職業を身につけましょう)

一、以テ智能ヲ啓發シ(知識を養い才能を伸ばしましょう)

一、德器ヲ成就シ(人格の向上に努めましょう)

一、進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ(広く世の人々や社会のためになる仕事に励みましょう)

一、常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ(法令を守り国の秩序に遵いましょう)

一、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ (国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)

どうですか。いま、これを読む人は少ない。前半は結構、いいことが書いてある。ただ、後半となると、かなり、意見が分かれることだろう。どちらにしても、昔の人は、この文章を読み、父母への孝行や夫婦円満について、兄弟の大切さなどの友愛や、まるで、二宮金次郎を思い出してしまう学問の大切さについて、法律を守らなきゃと遵法精神、いざ、鎌倉の精神のように...国と天皇家を守るべきである。これらが、十二の徳目である。この徳目は道徳であり、これらを行うことこそが天皇の忠臣、国民の先祖の伝統だということなのである。しかも、これらの徳目(道徳)は、歴代天皇の遺した教えであり、国民とともに天皇自らこれを銘記して、ともに守りたいと誓ってこの教育勅語はまとめられている。

『教育勅語(教育ニ関スル勅語)と移民 時代背景』

 この『教育勅語』が世に出たのは、1890年のこと。日本のブラジルへの移民が始まったのが、1908年のこと。『教育勅語』が世に出て18年後のこと。たとえて言うなら、『教育勅語』が世に出された年に生まれた人が18歳になったときブラジルへの移民が始まったことになる。つまり、日本人の教育観は、天皇中心に『教育勅語』を主柱とするものだった。そして、明治維新が1868年のこと。『教育勅語』のちょうど40年後にブラジルへの日本移民が始まる。明治維新は、何もかも『一新』できると明治に生きる人々に希望を与えたものだった。相次ぐ『改革』に明治の人々は目を見張ったのである。その『改革』の一つに『教育』があった。

 話を続けよう。当時の日本の教育事情を理解できるときっと海を渡った日本人の生き方も理解できると思うからである。

 『明治の教育』

 明治維新までは、各藩の教育制度があり、地域差が大きかった。しかも、江戸時代には身分があった。したがって、この身分により教育が分けられ、学校教育の偏りがあったのも事実である。 それが明治になって、身分もなくなり、政府は一気に教育に対する方針を転換するのである。日本を世界の強国にしないといけない。西洋のような全国一律の教育制度が必要だと考え始めたのである。そこで、各藩でばらばらだった教育制度を統一し、義務教育を始めることになったのである。しかも、男女共学である。6歳以上の男女に教育の機会が平等に与えられたのである。

 1872年に学制が公布され、全国に尋常小学校や高等小学校、大学が設立され、1886年には、少しずつ一般の人々も全国一律の教育を受けられる環境が整った。とはいうものの、当時の政府が資金を出して、学校を建てたわけではない。そこには、土地の有力者やボランティアの精神旺盛な人々の力によって、校舎が建ち、全国各地で一律の教育が実施されたのである。当時の人々は、家の仕事を手伝わないと生活が成り立たず、なかなか就学率が上がらなかった。しかし、基本的に勤勉な精神を持っている日本人は、各家庭でも教育に対して力を入れ、識字率も就学率も飛躍的に改善されていくのである。

 『明治の女子教育』

 ところで、明治の学制の改革により、6歳から男女共学による教育が実施されることになるのだが、女子への教育に対する当時の日本人の考え方は一貫として不必要であるとして、男子の教育に比べ、女子への教育は遅れたのである。

 女子への教育の必要性に気が付いたのは、渋沢栄一や伊藤博文であり、女子教育奨励会が設立された。また、黒田清隆が中学校の社会『歴史』の教科書にもでていくる岩倉使節団に、女子留学生も加えさせたのである。ただ、なかなか、志願者が見つからなかったことは言うまでもないが、その主要な女子留学生のメンバーは、永井しげ、津田うめ(当時6歳)、大山捨松。彼女らは、日本の女子教育の先駆者となるのである。

明治時代における女子への教育の関心は今なお続いていることはみなさん、ご存じの通り、だいぶ改善されている。ただ、女性の社会進出については、まだまだ、課題が残され、その改善策を政府をはじめ試行錯誤している段階が今日の日本の女性を取り巻く環境であると言ってよいだろう。

 『木村 欣三郎と教育』

 さてさて、明治維新から40年が経った年、そして、教育勅語が出されてから18年が経った年に、日本からのブラジルへの移民が始まった。どんな日本人が約2万キロの航海をしてはるばる日本からブラジルに渡ったかが想像できるのではないだろうか。ブラジルに渡るために、人為的に作られた構成家族で海を渡った人たちも多い。ただ単に海を渡るために構成された家族たち。どんな気持ちだっただろうか。一攫千金を狙って、『さあ 行こう 一家をあげて 南米へ』と言ううたい文句と希望をもって乗船し、ブラジルへと渡っていったのである。その中に『木村 欣三郎』もいた。彼は、1930年3月3日にブラジルの地を踏んだ。カーニバル真っ盛りであった。彼が結婚するまでは、農業に専念していた。だれでもそうであると思うが、『教育』について考えないのがふつうである。子どもを持ったとき、考え始めるのである。これは、どんなに子どものときに勉強をしなかった親でも、子どものことになると、『教育』の二文字が頭をよぎり始めるのである。そして、夫婦喧嘩の火種となったりするのである。それが、この『教育』である。

 では、『木村 欣三郎』は、どうだったろう。中学を卒業して、日本を離れた彼。読書が好きでよく本を読んでいた。彼の写真を見れば、メガネをかけている。メガネを使っているからといって、本が好きというわけではないが、彼の教育に対する考え方も、日本人の勤勉さを象徴するように、ほかの日本人と変わりはなかったように思う。

 『木村 欣三郎の子どもたちと教育』

 彼が親になったとき、彼の子が学校に行く年になるころには、できる限りのことをして、勉強ができる環境を作った。ところが、今のように、スクールバスがあるわけでない。通学は、徒歩がふつうだった。1934年生まれの筆者の母でさえ、

「昔は、毎日、3里は歩いて勉強して行ったんだから」が口癖であった。3里といえば、12キロ。筆者自身、若かりし日々、仕事で遅くなり、終電で帰宅が続いた日が多かった。筆者の自宅は、国鉄の駅から約10キロのところに位置し、終バスも終わり、高いタクシーには乗らず、よく歩いたものである。筆者の家の近くには、4つの湖があり、かなりの田舎。しかも、冬はこの湖のために手前の町に比べ、10度くらいの気温差があった。年始に雪が降れば、春まで融けないそんなところに住んでいた。国鉄の駅から10キロあるその自宅まで深夜によく歩いたものだ。ダムを渡るとき、そこから見える景色はまるで、吸い込まれるようで、自殺をしたくなくても、身を投げたくなるような気がするのは、不思議な感じだった。ただ、ブラジルに渡った日本人と筆者の違いは、舗装された道路を歩く私と凸凹の道を行く当時の移民の子どもたち。しかも、炎天下を行く移民の子どもたちと、深夜の星降る夜空の下を行く筆者。雲泥の差である。いまだったら、熱中症にならないようにと水分補給のために水筒を持たせて歩かせていたに違いない。しかも、乾季は、トラックやトラクタが通れば、土ぼこりがひどい。風が吹けば、なおさらである。心地よい風は、汗を乾かし、気分もいいが、土を巻き上げる強い風は、歩きにくいし、目にゴミが入ってしょうがない。そして、雨季には、土がぬかるみ、土が靴底について、上げ底の靴のようになってしまい、歩きにくくなる。多くの子どもたちは、雨が降れば、学校に進んで行こうなんて思わなかったに違いない。ところで「靴底」と書いたが、靴を履いて登校する子どもたちは、当時、少なかったに違いない。確かに、『さあ 行こう 一家をあげて 南米へ』という掛け声のもと、たどり着いた南米だが、それほど、人生は甘くなかった。持参金など、すぐに底をついた。日本へ帰国したいと思っても、いまのように気軽に一時帰国することなどできなかった。しかも、飛行機ではない。船で一か月半の長旅である。船旅の良さは、時差ボケがないこと、いろいろな人々と親睦が深められることだが、その反対に、丸一日で移動できる飛行機とは違って、時間も費用もかかる長旅だったのである。当時、日本を離れる以前もつらい生活をしていた人も多かったが、日本を離れ、ブラジルに渡った移民たちの生活も改善されることなく、生活するだけで精いっぱいだったのである。そんな人々が南米のそこここに居た。『木村 欣三郎』も例にもれず、その一人であった。ただ、妻の話によれば、お米を食べられないまで貧乏になったことはなかったという。ただ、妻の幼少のころ、電気のない暮らしをしていることを見ても、裕福な生活はできなかった『木村 欣三郎』の断片を伺い知ることができると思う。妻が幼少のときとは、ちょうど日本が高度成長期の時期でのことである。

 日本では、都会に住んでいた『木村 欣三郎』。その彼が、南米の大地で農業を営み、サンパウロ州の奥地、マリリアを中心に転々とする日々を送る。筆者の妻の母は、このときが一番楽しかったという。借地して、農業を営み、3年後は引っ越しをするからだ。しかも、家の作りがいまのそれと違う。大体、このころの家は土間である。だから、お茶をこぼしても、拭く必要がない。ご飯をこぼしても、アリが運んでくれた。しかも、3年に一回は、新しい家に住める。『新しい』というより、別な土地の家である。ちょっとした気分転換になっていたようである。妻の祖母は、厳しい人であり、学校に通うときは、必ず靴を履かせた。どんなに貧乏しても、勉強しに行くのに、はだしにさせなかった。そして、ポルトガル語のラジオを聴けば、

「外人みたいだ」

「不良」などと言われ、怒られたそうである。

日本を離れても、日本語を忘れてほしくない、日本の文化を忘れないでほしいという気持ちがあったに違いない。その証拠に木村家の日本語は、文盲の『木村 欣三郎』の妻が家で教えたことからも分かる。そこに潜む『日本語教育』への重要性は、だれが何も言わなくても、自然と考えるものだったのであろう。当時のブラジルの教育は4・4・3年制だった。現在のブラジルの教育制度は、5・4・3年制である。

 『家の手伝い』

『木村 欣三郎』の子どもの大半は、4年生まで通い、その後は、就職することもなく、そのまま家の仕事を手伝った。家の仕事、それは、農業である。大きな土地に綿花、アメンドイン、トマトを植えた。農作業の合間に『木村 欣三郎』の子どもたちは、勉強をしたのである。ちなみに、『木村 欣三郎』の子どもたちは、ブラジルの教育を現地の各地域にある学校で受けた。ある子どもは、叔父のところに預けられ、そこから歩いてブラジルの学校に通ったのである。幼くして、親元を離れ、勉強するのは辛い。親戚の叔父のところとはいえ、自分の家ではない。日本の戦時中に疎開した子どもたちのした苦労と同じような苦労をしたに違いないのである。家の手伝いもしながら、ブラジルの教育も受け、日本語の教育を家で受け、さまざまな知識を同時に習得していった『木村 欣三郎』の子どもたち。現在、もう、彼らは60歳に届く歳になっている。日系ブラジル人二世として、ブラジルで活躍している。日本に出稼ぎに行き、年金生活を目前にしている人も多い。

 『木村 欣三郎の教育 軌跡』

 ところで、『木村 欣三郎』は日本で中学を卒業している。当時としてはインテリだったに違いない。手が器用だった。物知りだった。以前にも書いたがベッドを作った、家を作った、大家族のみんなが座れるようにと椅子を作った。食べるときは、みんな一緒。10人を超える大所帯の『木村 欣三郎』の家族になったとき、彼は、もうだいぶ年を取っていた。

 日本を離れてブラジルという異国の地で生活が始まると、『木村 欣三郎』のように、自宅で文盲の奥さんが日本語を子どもに教えるというスタイルをとるケースや地域に日本語学校を建てようと考え、行動する集団もでてきた。それが、各地にできた日系ブラジル人の団体、文協と言われるものである。『文協』という名は、第二次世界大戦に問題が起き、現在なお、ポルトガル語では、別な名称を持つ団体が多い。現在は、日本人だけの団体というのはブラジルでは存在してはならない。なぜなら、人種差別を先導するような団体になってしまうからである。

 さて、現地に同化してしまえという家族もいたに違いないが、木村 欣三郎が生きていた当時は少数派であった。ところが、現在では、ブラジル現地に同化している家族が大半である。日本からのブラジルへの移民が始まって、もう110年を数えようとしている。ブラジルに同化しない家族が少数派になっている現在、もし、木村 欣三郎が生きていたら、どんな風に思っただろうか。

 『日本語学校』

 ところで、ブラジル各地に日本語学校を建てる動きは、当時の時代背景から考えても、自然な成り行きだったように思う。先にも書いたが、明治維新までの日本の教育は各藩によって差が大きかった。明治維新により学制が変わった。男女共学になった。そのときの学校は、地域の有力者が中心となって建設された。国の援助により、建てられた学校ではなかった。そのような下地があったからこそ、ブラジルという2万キロの海を渡った地においても、日本の文化を継承する動きが自然と生まれ、地域の成功者や有識者たちが中心となって日本語学校が建設したのである。ブラジルの各地にできた日本語学校は、手作りの学校と言ってもよいだろう。学校の建設は、地域の人々の輪を広げることになるし、問題の共有ができる。一人でする仕事に比べて、みんなで協力して行えば、きっと、どんな苦境でも乗り越えられる。そんな考え方が自然に日系コミュニティから生まれたと思う。学校建設をする費用が足りなければ、寄付も集められた。生活が決して楽ではなかったが、『木村 欣三郎』も率先して寄付をしたそうである。

 『今の日系ブラジル人と教育』

 子どもたちの将来を考え、できる限りのことをした『木村 欣三郎』。時は流れ、現代に生きる移民の末裔たちは、現地に同化し、ブラジル社会に貢献する日系ブラジル人が少なくない。教育に対する『木村 欣三郎』の生きた時代のニーズと現代のニーズは違う。『木村 欣三郎』の孫にあたる妻と筆者の子どもたちは、ブラジル社会に同化し、現役の大学生となった。「日本語は、教えなくていいの?」という妻の問いかけに筆者は、

「ブラジルで生きていくうえで、まずブラジルの教育を優先すべきだ」と答えていた。その筆者の答えに妻は、

「日本語を話せなくなるわよ」と筆者に事あるごとに警告していた。それでも、日本語を強要しなかった筆者。では、子どもたちは、一体どうなったかといえば、娘は、日本に10か月間、聴講生として留学ができた。苦手だった日本語をたくさん覚えて帰ってきた。息子は、筆者と一生懸命日本語を話そうと努力している。それは、筆者である私が、なかなか、ポルトガル語を習得できない愚か者であることを物語っている証拠である。人間、必要に迫られたとき、自分から覚えようと思ったとき、そのときこそ、日本語を習得できるのである。だから、私は、ほっておいたのだ。それが、いい方法だったのかと問われれば、

「まぁまぁ、あたり。」と答えたい。

 何はともあれ、二人とも忙しい大学生活を送り、週末は毎週、家族で集まり賑やかな生活を送っている。

 『進学』

 『木村 欣三郎』の生きた時代は、いわゆる日系ブラジル人は勤勉だった。畑で苦労した親を見て、苦学した子どもたち。何とか、大成したいと思って日本から渡った親の世代。その苦労を見て育った子どもの世代。ブラジル社会に羽ばたき、つい先ごろ行われたリオ・オリンピック2016でも、日系ブラジル人のことが紹介された。そして、その次の世代。筆者の世代はというと、大成した日系ブラジル人に加え、日本へ出稼ぎブームで成金になった人々でごった返した日系ブラジル人が溢れた。日本語しか話せない、ブラジルに同化できない日系ブラジル人が増加したのである。そして、日本に永住する日系ブラジル人が増加した。そんな変遷が日本からブラジルに移民が始まって110年間に起きたのである。

 昨今、日本では、3人に一人は進学する大学。ブラジルでは...。かなりの狭き門である。しかも、大学に進学してもストレートで卒業する学生は少ない。現役生が大学に入ることも難しいブラジルで、大学を卒業する学生がかなりのエリートであることは間違いないのである。州立の大学の授業料はただであるが、生活費が馬鹿にならない。大学進学する子を持つ親は、

ブラジルでは、とくに大変なのである。かといって、見返りがあるのかといえば、それほど期待できるものでもない。中学、高校、大学の教育水準はそれほど高くないブラジルでも、トップに立つことが容易ではないことは、日本と変わらない。大学に進学するだけでかなりのエリートになるブラジル。大学に行くことよりも学校に4年間、行かせることが辛かった『木村欣三郎』の生きていた時代。だれでもが受験できるようになり、現役で大学に入ることが難しくなった現在。現地の教育を受けながら、なんとか日本語も勉強させたいと思っている日本語の苦手な親を持つ家庭。生きる環境が変わり、時代も変わった。ブラジルの教育を第一に考える現代と日本の教育を第一に考えていた『木村 欣三郎』の生きていた時代。違いこそあれ、日系ブラジル人は、ブラジルに生き続けているのである。(つづく)

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