木村欣三郎物語 第006話

2018年01月20日

『急逝 義父 克己 ~訃報~』

不意をつく知らせに驚かされた。木村欣三郎の長男である私の義父 克己が六月二九日に息を引き取った。高齢とはいえ、まだまだ、元気で老いを見せない感があったのにも関わらず、こんなことになってしまった。先日、四十九日の法要を滞りなく終えたばかりである。義父は寡黙な人だった。食事には、いつもビールを一缶出してくれた。元来、私自身があまりお喋りではないので、会話という会話があったわけではない。それでも、週末に義父の家を訪れると、快く出迎えてくれた。妻がいつ、行くのか決め連絡をすれば、義父は必ず、町に買い物に出かけた。私というより、孫である私の息子や娘、妻を心待ちにしていた。とくに息子のことを可愛がった。亡くなる一か月前、義父の健康がすぐれなくなり、妻や息子が駆け付けた。義父は、はじめのうち、病院に行くことを拒んだが、私の息子の運転で病院に向かった。それが、戻らぬ旅路を歩むことになるとは、誰しもが想像していなかった。そして、義父を病院に連れて行った直後、息子は日本へ研修に出かけた。私の息子にとって、それが、義父を見る最後となった。いつも義父は私の息子に会うたびに、

「幸路、いつ日本に行くんか。また、うちに来るんだろ。」と言って別れていた。義父が入院し、いよいよ私の息子が日本に経つ直前、義母が息子にお金を渡している。よほど、孫が日本に行くことが嬉しかったのだろう。義母は私の息子に、

「じいちゃんから、預かったものがあるから」と幸路にお金を渡したそうである。幸路というのは私の息子の名前である。

十年くらい前までだろうか。義父はだいぶ、煙草を吸っていた。それも手伝ったのだろう、肺を患っていた。ちょっとした坂道を歩くにも、すぐに、息が荒くなった。息苦しがった。それから、尿が出にくくなっていた。いつも元気そうに出迎えてくれていた義父も、老いと病には勝てなかったのである。心配させまいという気もちからか、一切私たちに、苦しかった様子を見せなかった。そして、入院してから、いろいろなことを知らされたのである。

『急逝 義父 克己 ~会話~』

義父は、容態が悪化して亡くなるまでの一か月の間に、義弟たちとたくさんの会話をしている。これまで、そんなに話したことのなかった親と子。義弟たちが驚いたほどだった。義父の子供は五人。死産や流産を含めれば十人の兄弟。その長女が私の妻、千代子である。義父の息子一人ひとりのことをくわしく、ゆっくりと話したそうである。一人ひとりのいいところ、悪いところ、彼らのことをどんな風に見ていたのか、全てを彼らに語った。何のために?と疑問がふと湧いた。自分の死後を心配していたのだろうか。自分たちの短所や長所を言葉すくなに話す義父の姿が目に浮かんだ。サンパウロの奥地、マットグロッソを転々として、最後にピエダーテに落ち着いた。ピエダーテに一足先に下見に来て、現在の土地を秋元さんから購入した。そして、生涯を終えるまでその土地を出ることはなかった。一度も行ったことのない日本に行くこともなく、このピエダーデから離れることはなかった。その土地を義父の死後、どうしてほしいと思っていたのだろうか。義父の入院中に土地を買いに来た人がいた。きっと、長年、こよなく愛したこの土地を売って町に家を買おうとしていたのだろう。晩年は、農業をすることもなく、土地を知人に安く貸し与えていた。家の周りに小さな畑を作って、食べる分くらいの野菜を植えて、余生を楽しんでいた。ピエダーデといえば、アオカショーフラ、玉ねぎの産地だった。「過去」になってしまった。気候は農作物に味方してくれたが、地形は、農業を続けるには不利だった。急な傾斜が続くピエダーデ。地形の悪さがピエダーデの農家に打撃を与えたのは言うまでもない。急斜面が多いピエダーデは、どうしても人手を省けない。機械化が困難であった。そのため、ただでさえ、手間のかかる野菜農家。人件費がかさむ。経費削減が難しかった。しかも、きつい農作業は労働問題も数多く引き起こした。たくさんの農家が雇っていた人に訴えられた。そして、労働裁判で負けた。労働問題専門の弁護士と一緒に労働者が雇用主である農家を相手取って裁判を起こすことが頻繁に起きた。ただでさえ、天候に左右され収入の安定していない多くのの農家は、破産に追い込まれた。証人を連れてきて、雇ったこともない人が裁判を起こしたこともあったほどである。ここブラジルでは、労働者が裁判を起こした場合、たいてい、労働者は勝訴する。法律が労働者側の立場で作られているからである。それに輪をかけ、素直な日本人の血をひく日系人。ジェイチンニョなど使わない日系人。そんな日系人は裁判に勝てるわけがない。ただでさえ、労働者側の視点で作られている法律にブラジル独特のジェイチンニョなくして、勝訴などあり得ない。多くの労働問題や山がちな急斜面のため、困難な作業を必要とし、なかなか経費を削減できなかったのである。農産物価格の下落も手伝い、多くの日系ブラジル人農家は破産した。破産した日系ブラジル人の農家の行く先はもちろん、日本。そう、「出稼ぎ」だった。多額の負債を抱え、その返済のために日本へ「出稼ぎ」にでた家族は多い。私の妻の兄弟も五人のうち三人は日本で「出稼ぎ」である。そう、玉ねぎで儲けた時代が遠い過去になってしまった。時代の流れとともに、ピエダーデの様相は変わった。ただ、ここで面白いのは、非日系人の農家はどうだったのだろう。もちろん、日系人と同じようなことをされた。でも、立ち回りが日系人よりもうまかったのではないだろうか。そこは、ブラジル独特のやり方・ジェイチンニョで、労働問題を未然に防いでいたように思えた。

 義父の家も同じだった。義父の人柄も手伝い、労働問題はなかったものの、農産物価格は味方してくれなかった。現在、義父の土地の隣の農家は、今も農業を続けている。ただ、現在、年間に十五万レアルの赤字で続けている。農業に見切りをつけて日本に出稼ぎに行きたいと義父のお通夜に言っていたと妻が言っていた。しかしながら、高齢の両親がいる。彼らをあの土地に置きざりにして日本に行くことはできないとも言っていた。多額の負債を抱えても頑張っている理由である。

 義父のところも例にもれなかった。農業に見切りをつけ、だれも後継ぎは残らなかった。それでも、義父は義母と二人でたくさんの歴史の詰まったピエダーデの土地に残った。最後に私が訪れたときには、よくできたらっきょうの漬けものをもらった。そのらっきょうもあと少しになってしまった。どういうわけか、そのらっきょうの苗を少しおすそ分けしてもらっている。そうそう、私の息子の幸路が植えたいと言ったら分けてくれたのである。いま、その義父からもらったらっきょうが大きく筆者の土地ですくすくと育っている。

 思い出と歴史がたくさんつまったその土地を後にする日が突然、義父の目の前に現れた。そんなとき、義父は何を彼の息子たちに伝えたかったのだろうか。私の妻、千代子は、言葉少ない義父の言葉を次のように理解した。

「ピエダーデの土地を売ってもいいし、誰かが後を継いでもいい。この土地には歴史が詰まっているのだから、きちんとしてほしい。なおざりにしないでほしい。」

 様々な思い出と歴史の詰まったピエダーデの土地。そこを置いていく日が近づいているにも関わらず、義父の息子たちはなかなか集まれなかった。それは、義父にとって残念なことであった。義父は、死ぬ前に息子五人全員が、そろってほしかったのである。彼は、何かを息子たちに託したかった。そうに、違いなかった。そのことだけが、無念だったように思われる。日本から駆けつけた長男も、帰国時期を予定より早めることができたので臨終に間に合うことができた。日本の仕事先の理解があってよかった。そうでなければ、臨終に居合わすことができなかった。筆者自身、何度となく欠勤した。義父であることからも給料からひかれてしまうが、それはそれ。大切なことは、そういうことではない。職場の理解を求めるよりも、この世を去ろうしている人に真摯な態度で臨むことが大切だと私は思う。長旅の疲労もあった義弟は、愚痴も言わずに、真摯に看病に励んでいたのが印象的であった。

 そんな思い出と歴史の詰まった土地を残して、入院生活していた時の義父の気持ちは、計り知れない。実の息子たち一人ひとりに色んなことを話したかったに違いない。それでも、ブラジルにいる息子たちに一か月という短い期間に、口数の少ない義父が話をすることができた。口数の少ない私の義父がたくさんの会話ができた息子たちは、きっと、その内容を一生忘れないことだろう。

 『急逝 義父 克己 ~再会~』

義父が亡くなる一か月前、サンパウロ州イトゥ市にある「ほかほか」というレストランで会食をした。このレストランはイトゥのショッピングセンターのそばに位置する。辺鄙なところにあるが、よくトヨタの日本からのコーデネーターも来るほどの美味しいお店である。小さな入口には似合わない奥行のあるレストラン。落ち着いた雰囲気で、店員の応対もいい。食べ放題のコースもある。ただ、食べ残したら罰金を払うことになる。「もったいない」ことをしたらいけない。筆者の家族は、毎年、忘年会をする。一年に一回の贅沢である。そのときに選んだレストランが「ほかほか」。美味しかったので、義父たちにも勧めたのである。そこのレストランのオーナーは、偶然にも秋元さんというピエダーデの土地の前の地主だった。何を食べるかかなり迷っていた義父だった。焼き魚定食にするのか、ショウガ焼肉定食にするのか、それが問題だった。さんざん悩んだ挙句、結局、ショウガ焼肉定食を注文した。みんなでゆっくりと楽しく夕食を済ませた。ところが、義父は、ショウガ焼肉定食がどうも、口に合わなかったらしい。ショウガで味付けをした肉を食べるのはきっと、はじめてだったのだろう。あまじょっぱく味付けされた肉を食べるのが嫌だったにちがいない。焼き魚定食を恨めしそうに横目に見ながら、ぼそり、ぼそりと食べていたのが印象的だった。結局、半分以上、残していた。それとは、好対照に私の娘は、あれもこれもと色んなものに手を出し、試食していた。よほど、味が気に入っていたのだろう。若いというものはいいものである。そして、秋元さんも挨拶に来てくれた。

この秋元さんは、あのピエダーデの土地を走って登ったり下ったりして農作業をしていたそうである。湖のそばに家をつくり、こんにゃくいもを植えていた。こんにゃくいもが何か知らなかった義父たちは、なんでこんなところにこんなものがあるんだろうとたくさん引っこ抜いてしまったそうである。今となっては勿体ないことをしたと言えるが、当時は、何の気なしに引っこ抜いていた。知らないというのは、良い事でもあるが、その逆もある。でも、こんにゃくはできるのに一年半から二年かかる。しかも、こんにゃくの製造方法をここで書いたら、「えっ」と思う人も多いことだろう。興味のある人は調べてみるといい。

会食の最後に、秋元さん夫妻と木村家の写真を撮った。これが、義父にとって、最後の一枚となった。そして、その写真の義父の部分がいま、仏前に飾られている。

急逝 義父 克己 ~長男という二文字~

木村欣三郎の長男であった義父の克己。「長男」の二文字は今でこそ、意味をなさない。日本の家族構成は、ひとりっ子、ふたりっ子。それくらいである。だから、「長男」の意味がほとんどなくなってしまった。奈良時代には、口分田が与えられた。性別や良民、賤民かどうかで面積は違うものの、6歳になったら、一人に二千四百㎡を与えられ、米を作らされた。中学校の教科書にも書いてある。ちょっとした一文である。でも、耕してみればいい。中学の社会の時間に60mの長さに40mの幅の畑をクワで耕した人はいない。そんな授業をしていては、どれだけ時間があっても足りないからだ。でも、実感が湧く。耕していないところを開墾するとなると、木の伐採から始まるということを知らない人は多い。木は小学校でも習う通り、根っこもある。葉っぱもある。枝もある。木を切り倒すとき、隣にも木がある。木の枝も根っこもある。実は、枝が隣の枝に引っかかって、幹を切っても倒れないことがよくある。「森」という漢字に「木」という漢字が三つ使われている。でも、本当の「森」に三本だけの「木」しかないなんてことはない。切っても、切っても、「まだあるの?」というくらいたくさんの「木」を切らないといけないのである。斧とのこぎりが頼り。木を切り倒したら、枝を切らないといけない。運ぶのに邪魔だからだ。小さくしないとトラクタのトレーラーにも乗らない。もっとも、のせる作業も大変な仕事であった。しかも、こういう仕事は乾季にしなかったら、作業が大変どころか進まない。トラクタとは言え、道なき道はぬかるみ、とてもじゃないが、スタックしてしまう。先日、同僚が、

「なんで森の道は、あんなにぬかるんでるんだろう。」と問いかけてきた。そんな疑問を大人がすることに閉口した。私は、

「どこに乾いた土の森があるんですか。」と答えた。森は、木が茂り、陰を作る。そこには落ち葉がたまる。そして、微生物やミミズなどが生息して、自然に土を肥やすのである。だから、森に人手はいらない。化学肥料なんていらないのである。一度、中学の社会の授業でこんな質問をしたことがある。

「畑は人が世話をしないと作物が育たないのに、森は人が入れば、枯れていくのはなぜですか」この質問に答えられる生徒はいなかった。学校で習うことを総合的に考えればすぐにわかることである。答えは、いろいろなところにちりばめられているのである。それをつなぎ合わせること、それができない最近の小学生、中学生。

話しはそれてしまったが、とにかく、乾季に伐採作業は行われる。火入れもするが、大木は残る。毒蛇や毒グモも死ぬ。動物たちも焼け死んでしまうことがある。耕地を作るということは、大変な作業なのである。まして、奈良時代には6歳の子供がいれば、土地を耕し、米を作らせるためにあてがわれたのである。今では、土地を購入するのに、孫の代まで借金をしないと持ち家なんてできない。時代の変遷を見てみると面白い。

 開墾作業というのは、木を切るところから始まり、伐根作業もある。伐根?そう、小学校でも習う通り、幹があれば、根っこもある。根っこは畑に必要がない。邪魔になるだけである。だから、「伐根作業」がある。昔の人は、よく「かぼちゃ」を根の周りに植えて根を腐らせた。一石二鳥というわけだが、それほど、短期間の作業ではない。ここに多くの紙面を割いて開墾産業の大変さを書いたが、農作業は一般的に言っても大変な作業なのである。それが中学校の社会の教科書には「さらっ」と書かれているだけなのである。

 とにかく、農作業はきつい、つらい。そのきつくつらい農作業を義父である「克己」は木村欣三郎に一任されたのである。「長男」だからだ。これが、彼、義父にとってかなりの重荷だった。彼の生涯はこの重荷を背負って歩き続けた。すべての責任を背負い続けた。背負い続けて、その重い荷を下ろすこともなく、生涯を閉じた。

とにかく彼は働いていた。前の晩に遅く寝ても必ず、朝早くに起きて畑を見回った。何が畑で起きているのか観察して回った。土の湿り具合、雨が降るかどうか、病気が発生しているのか、害虫が発生していないか、根は腐れていないか、葉っぱの色は大丈夫だろうか、追肥は遅れていないか、間引きは遅れていないか、雑草抜きの作業は大丈夫だろうか。細かいところをつぶさに見て回った。それが義父の日課でもあった。発熱しても、ベッドに横たわることは数えるほどにしか過ぎなかった。

田舎に住んでいたとはいえ、地域の日本人会ではいろいろな催しが行われる。「カラオケ」「シネマ」「青年会」の催しや「婦人会」の催し。家族のみんなは、出かけて、楽しんで帰ってくるが、義父は行かなかった。よほどのことがない限り、行かなかったのである。それだけ重荷を背負っていたのである。会館や親戚の家に行くとき、車でもトラクタという車にトレーラーを付けてそこに乗っていった。車を持つようになったのは、ごくごく最近のことである。冷蔵庫もテレビはおろか、電気すらない時代を過ごしてきたのである。読者のみなさんには想像もつかない、やってみようなんてとても思わないことを彼らは普通に生活してきたのである。いま、生きる人たちとは土台が全く違う。

何人ものカマラ―ダ(日雇い労働者)を使って作業をしていた。彼らの農作業の現場監督である。トヨタバンデイランチスに座るところを付け、雨に濡れないようにホロを付け、朝早くにカマラ―ダを迎えに行き、帰りも送った。朝もやの露も体を濡らす。6月の冷たい風は、ほろがなかったら、たまったものではない。農作業をする前から、作業着が濡れては元も子もない。時間に正確に毎日、送り迎えをしていた。トヨタ バンデイランチスの整備も怠らなかった。もちろん、それほど余裕があるわけではない。必要最小限の整備を怠らなかったのである。必要最小限というのは、道で立ち往生しない程度の整備ということである。道で立ち往生しない程度... それが、生きる術である。農業は、農産物価格を自分で決めるわけにはいかない。市場が決める。原価計算など農家には知る必要がない。それよりも、農産物が市場に出回るかどうか、需要と供給の曲線とにらめっこしておく必要がある。たとえば、収穫期に雨が続けば、農産物は腐ってしまう。日本のように各地域に集荷場があるわけではない。冷蔵貯蔵ができるような施設を備えていないブラジルである。貯蔵をして新鮮さを保てる施設は農産物価格が安いブラジルには個人でも組合でも作ることは難しい。雨が降れば、農作物は濡れる。濡れれば、腐れが入る。農作物が腐れれば、売れない。慌てて市場に出せば売れるが、そう思って出荷する農家が増えれば、市場に農作物が溢れ、農産物価格は下がってしまう。人の口の大きさは決まっている。農産物が市場にたくさん出回ったところで、買う人数は限られている。そうこうしているうちに、売れる手元の農作物は減る。そうすれば、減収につながる。長雨が続けば、農作物の質は悪くなり各農家の手持ちも少なくなっていく。市場は農作物が出回らなくなり、農産物価格が上がり始める。でも、農家には出荷できるような農作物がない。つまり、せっかく農産物価格が高くなっても、収入を得るものがない。いわゆる農家にとって、経済の悪循環なのである。農家は、天候に左右されやすい。しかも価格を安定させることが難しい。しかも、現在のブラジルは農産物が過剰気味。品種改良や灌漑のための運河建設など飛躍的に農産物生産が増加している。農産物価格は高騰することよりも、下落することの方が多くなった。そして、農産物価格は低迷し続けている。しかしながら、一部の農産物だけが高騰している状態が続いているのである。

天気に左右される農作業は、天気によって作業が変わる。雨の日は、外での作業はできない。だから、とくに収穫期には、荷造りをしたり、小屋の整理をしたりしている。雨がやみ晴れれば、当然のこと、圃場で作業。こういうとき、すぐに消毒をする。湿気が高くなり、気温も上昇すると病気が発生しやすくなるからだ。病気が発生すれば、作物は弱り、害虫が発生しやすくなる。害虫が発生すれば、すぐに殺虫剤を巻かないといけない。毎日がその繰り返しだ。害虫が発生すれば、すぐに農業技師に聞きに行き、農薬を散布する。病気が発生すれば、また、農業技師にどうしたらいいのか、聞きに行く。そんな仕事も義父の仕事だった。うっかり、見逃せば、全滅ということもあり得る農業。リスクが非常に高い。だから、義父は、毎日、畑を歩いた。歩いて観察していた。ほんの少しの変化も見逃さなかったのである。作物は、「足音を聞いて育つ」と言われるほど、目を離せない。もちろん、四六時中、働いているわけではない。ただ、しなければならない仕事は、必ず終わらせる必要があった。たとえば、植え付け前の耕作。雨が降りそうだったら、必ず、雨の前には終わらせておかない。途中で終わらせたら、植え付けがそろわなくなってしまうからだ。雨のあとは、土が乾かないと、トラクタを畑に入れることができない。土は団粒構造になる必要がある。土は湿りすぎてもいけない、乾きすぎていてもいけない。土が湿りすぎていると、耕しているのにみんな固い塊になってしまう。これでは、植え付けができない。軽油が無駄になる。無駄な仕事は極力避けるべきである。なぜなら、農産物価格は、市場が決めるのであって、農家が決めるわけではないから。これが、農家にとって一番の頭痛のタネであることはここまで書いた時点でわかると思う。原価計算などできないのである。というより、これだけ、かかりましたという計算だけができるだけである。農作物がよくできれば、豊作貧乏になってしまう。ヒョウが降れば、作物は打撃を受ける。霜が降りれば、作物は焼ける。日照りが続けば、作物は枯れる。どうにかして灌水する水を確保しなければならない。そのために、義父は奔走した。そして、素晴らしい作物を出荷し続けた。出荷時期も賭けだった。いつ、農産物価格が高くなるかを考慮して、商談を進めた。商談も農業のうち。うまくいけば、大儲け。失敗すれば、大損。難しいかじ取りを長年し続けた義父である。かなりの忍耐力と度胸が必要だったに違いない。

ちなみに、ビニールハウスを利用した施設栽培をすればと考える人もいるだろう。義父の住んでいる地域は丘陵地。どちらかといえば山あいといってもいい。地形が悪いのである。ビニールハウスは平地に建てるもの。丘陵地に建てるのは労力もさることながら、経費もかさむ。しかも、ビニールハウスを建てるとき、風向きを考えておかないといけない。とくに強風がどこから来るのかを知っておく必要があるのである。強風にあおられてせっかく建てたビニールハウスが悲惨なことになってしまうこともある。それに、東西に長く建てるのか南北に長く建てるのかでも農産物の生育に差が出てくる。なぜなら、太陽の動きと関係するからだ。南北に建てれば、陰になる時間が長くなる。東西に建ててれば、陰の時間が短くなる。それだけでも、農作物に影響を与える。たった植える方向だけで日照時間が変わるからである。これが累積で計算される。日の当たる時間が変われば、毎日の温度も変わる。これも累積で計算される。平均温度も大切だが、累積温度も農作物に関係してくるのである。施設栽培はブラジルにまだまだ、向いていない。それは、初期投資が農産物価格に比べあまりに大きいからだ。もちろんできないことはない。二年に一度のビニールの張り替えができない農家も多い。光の透過度が下がれば、農産物の日照時間に影響を与えてしまう。ほんの少しの違いが大きな違いとなって表れ、それがその農家の一生を左右してしまうのである。それが「農業」というものである。

 以前は、日本人のほとんどが農家だった。それは、データにも残っていることである。江戸時代、十人に九人は農家だった。「百姓」というのは「百人の民」ということだった。いまでは、差別用語になってしまった。私がここまで書かなくても、ほとんどの人は農作業の厳しさを知っていた。今は、知らない人が多い。タネをまいて、なぜ枯れてしまうのかがわからない。多くの人たちが、そんな感じである。現在の日本人の多くの労働者は農業に携わっていない。サービス業に従事している。つまり、農家だった人たちは、サービス業に従事するようになり、農業のことなどを忘れてしまっているのである。だから、どんなことを書いても、どんな映画を作っても、その大変さが伝わらないのである。

「あ、そう」くらいのものである。どれだけ「農業」の二文字が「長男」の二文字を背負った義父が必死に生きてきたのか計り知れないにもかかわらず、実感できない人は多いことだろう。。

 実は、「長男」という二文字の意味の重さは、それだけではない。昔、徴兵制があった。日本男子がすべて徴兵されたわけではない。徴兵制には免除規定があった。その一つに「長男」は徴兵を免除された。なぜかと聞かれれば、それは、国を守ることも大切だが、家族を守るのはもっと大切であるという考えに基づいたものであるに違いない。家族がしっかりしていれば、国の 構成要因である国民もしっかりと国を守るというもの。だれかれ、徴兵していたわけではないのである。つまり、国でさえ、「長男」を大切にした。その「長男」という二文字を大切にしたのである。

急逝 義父 克己 ~食べること~

 「必死」に受け継いだ土地を守り続けた義父。親戚の家に泊まりにも行くのをいつも渋っていた義父。この土地を生涯、守り続けたのである。だれかが遊びに来れば必ず、歓待した。誰かが来るかがわかれば、町に出かけて大買い物をした。そして、にっこり出迎えたのである。この人には豚肉、この人には魚とちゃんと好みも知っていた。みんなに合わせて買い物をしていた。大好きだったフェイジョアーダや肉に味付けもしていた。みんなが美味しいと食べるのをじっと喜んで見ていた。義父の味付けは格別だった。農作業はおなかが減る。おなかが減った人にたくさん食べさせるのが、好きだった。勿体ないくらい、食べさせた。美味しいものをおなかいっぱい食べること、それが農業には必要だった。一緒に働いていた人たちにも腹いっぱい、食べさせたと言っていた。食べることは、基本である。生きるためには、食べなければいけない。衣食住のうちの「食」について固執した義父はもういない。

急逝 義父 克己 ~必死~

 不器用だったかもしれない。寡黙だったかもしれない。それでも、何事にも必死に生きてきた義父だった。ユーモアも持ち合わせていたという。若かった時は一人でしゃべって、笑っていたと妻が言っていた。余裕があったのだろう。いまは何をしてもうまくいかない。隣の土地の人の負債を考えれば、現在のブラジルの農業の難しさがうかがえる。そんな義父はいつも「必死」に生きてきた。実はこの「必死」という二文字は、響きはいいが、「必ず死ぬ」と書くのである。必死にすれば、「必ず死ぬ」のだろうかとふと思った。わき目もふらずにまっすぐと歩いてきた義父である。そういう生き方をしてきた。あっという間の闘病生活の一か月が過ぎ去ってしまった。義父にとっては、長く苦しかったと感じたに違いない。病院からいつ退院するのか、なぜ、息子たち全員がそろわないのかと言っていた。話しておきたいことがあると言っていた。正直な話、どれもこれも叶わない願いだった。冬だというのにもかかわらず、SUSの病室は日差しが強く暑かった。看護師は気を利かせて衝立を置いてくれた。それでも、暑かったのを覚えている。お見舞いに行くと、意識のあるときは、言葉少なに会話をした。たくさんの人がお見舞いに来た。そのたびに話すのも大変だったのだろう。だいぶ、疲れていた。寝ているだけでも疲れるものである。会話をするだけでも疲れるものである。不思議なものである。若かった時は、重い灌漑の管を持って移動していた。クワを持って耕していた。それが、人と会話するだけで疲れるようになってしまったのである。

 鼻にも管をさされ、意識もなくなってしまったときは哀れだった。私の結婚式のときに、魚を買って刺身をたくさん作ってくれた日ももう、25年も前のことになってしまった。本当は筆者である私が払わなければいけないものだったが、義父がすべて払ってくれた。ご祝儀も義父は受け取らなかった。私はご祝儀もプレゼントもいまだに、大切に使わせてもらっている。お皿のセットは、私の子供たちに持たせることができるほど、いただいた。私の結婚披露宴には四百人とも五百人ともいう人たちが来てくれた。今では考えられないような大きな結婚式だった。すべてが手作りであり、持ち寄りで料理は作られた。親戚一同が集まっての会場設営から料理から何から何までが手作りの結婚披露宴だったのである。その経費を義父は引き受けてくれた。そんな人だったのである。

 教育にも力を注いだ人である。どこに進学しても学費をねん出した義父である。生活費も捻出した。日本語学校を建てると言えば、寄付を惜しみなくした。義父自身は、日本語もポルトガル語も中途半端だといつも言っていた。それもそのはずである。家の仕事を任せされ、学校などろくろく行っていないのである。それでも、字はきれいだった。計算も速かった。本人が教育を受ける機会を逃してしまったことが残念だったのかもしれない。「教育」は大事だと言っていたことがいまだに耳から離れない。義父の死後、私の職場から香典を渡された。義母から香典返しを渡され、職場にもっていった。私の勤めているところは、まさしく教育機関であるから、きっと義父も本望だったと思う。一応、倍返しだった。義父の死の直前、

「葬式代も払えん」と困惑していた義父。ほぼ、全てを準備していた義父である。身の回りの整理をすべく、会計士にも死の直前にあって、確認していた。土地もどうにかしようとしていたらしい。義父の死はみんなにとって寝耳に水だった。あまりに急だったのである。一か月という短期間に逝ってしまったのだ。すべてを準備してこの世を去ってしまった。

 いつも、私は思う。自分はこういうことができるのだろうか。自分の最期を直視してすべてを準備することなど私にはできない。それどころか、長い闘病生活になって、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。そんなふうに思う。最期の最後まで準備周到にしていた義父には頭が上がらない。      (つづく)

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